渋沢教会
更新日:2016.3.8

1月31日 御言葉の説教「切なる叫び」

大井 啓太郎牧師
ヨシュア記6:1〜5
マルコ10:46〜52

 

 「ナザレのイエスが来るぞ」という声が聞こえたのです。ナザレのイエス?それは、今うわさになっているあのイエス様のことか?きっと彼だったら私の目を治してくれる!バルティマイは、どこにイエス様がいるか分かりませんから、ただただ大声を出して叫んだのです。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください。」道の片隅でいつもはじっとしているしかなかったバルティマイは、イエス様に目を留めてもらおうと必死で大きな声を出し続けました。群衆は、この途方もなく大声で叫び続けるバルティマイを制しようとします。「うるさいぞ、黙ってろ。」彼らには、バルティマイの切なる叫び、心の叫びは届いていませんでした。しかし主イエス様には、この叫びが届いたのです。「あの男を呼んできなさい。」そして、いつもは誰も相手にしないようなバルティマイがイエス様の前に連れてこられたのです。イエス様が呼んでくれた!彼は大事な上着をそこにほうり捨てて、躍り上がってイエス様の前に進み出たのです。イエス様は言いました。「何をしてほしいのか?」主は、彼にとって何より必要なものをご存知でした。しかしあえて問われるのです。「何をしてほしいのか?」と。バルティマイはお金をくださいとはいいませんでした。「先生、目が見えるようになりたいのです。」とだけ言ったのです。イエス様は、その目を癒されました。マルコには書かれていませんが、マタイでは触れて癒されたとあります。だれもが、よけて通るようなみすぼらしいバルティマイの目に主の温かな手が触れた。そして主は言われました。「いきなさい。あなたの私を信じる気持ちによってあなたの目は開かれた」と。彼はもう元の場所に戻る必要はありませんでした。新しい生きる道が見つかったのです。それはイエス様に従うという道でした。

 自分の人生を自分の力で歩みたい、生きたいという願いを主は無にされません。 権力や名声はなくても生きていけますし、天の国では邪魔なものです。しかし自分の人生を自分の力で歩むことは、主が望まれることなのです。私たちも主に切なる叫びをあげて生きていきましょう。