渋沢教会
更新日:2020.2.8

8月4日 御言葉の説教「??な神の業」

大井 啓太郎牧師
イザヤ44:21〜45
マルコ12:10〜11

 

 神様の業は不思議で、私たちの思いを超えています。21-23節では、神様が私たちの罪を吹き払ったと書かれています。確かに私たちは、主イエス・キリストの十字架による贖いによって、罪が赦されたはずです。にもかかわらず、私たちの心には、平安がない時があるのです。しかし、これは神様側の問題ではなく、私たちが罪赦されてもなお、また罪の身体を持っているが故に罪の生き方に戻ってしまう、自分中心の考え方から抜け出せないという人間側に問題があるといえます。だからこそ、私たちは、毎週毎週、主日に礼拝の中で罪の赦しの宣言を受け、もう一度神の武具の緩みをなおし、聖餐式によって主の十字架の恵みを再確認して、迷い出ないようにするのです。神様の愛を再確認して、新しい一歩を歩むのです。

 また、主なる神は、異邦人であるペルシャの王キュロスを「油注がれたもの」と呼び、あのバビロンの王ネブカドレツァルも、エレミヤ25:9や27:6で「私の僕」と呼んでいます。イスラエルの不信仰に対して、主なる神様は、国を滅ぼすという劇薬をもって信仰の回復を図りました。アッシリアもバビロンもそのような意味で、神の僕としてその役割を果たしたということなのです。

 このようにみていくと、私たちの人生にも、神様は同じように試練を与えて、私たちの信仰がさらに確かなものにされるということがあるのだということがわかります。マルコ福音書にありましたように、捨てられた石こそ、隅の親石となるように私たちに降りかかってきた災いが転じて私たちの人生にかけがえのないものとなるのです。幸福な出来事より、不幸と思われる出来事から、神の愛の多くを学ぶのです。一見??な神様の約束ですが、あのフットプリントの詩のようにつらい時にこそ、神様があなたのそばにいてくださっているのです。

 

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