渋沢教会
更新日:2020.2.8

8月18日 御言葉の説教「神様の背中」

大井 啓太郎牧師
イザヤ46:1〜13
Tヨハネ3:1〜3

 

 46章の前半1-7節は、「担がれる神」と「担ぐ神」という対比が示されています。これまでも、主なる神と偶像の違いが示されてきましたが、ここでは、ベルとかネボとよばれた、バビロンの神々の像が、動物によって運ばれる様を描いています。しかし、主なる神様はこのように運ばれる神ではなく、逆に私たちを背負ってくださるお方だというのです。先日、フットプリントという詩をご紹介しましたが、あの詩は苦しい時、神様が背負ってくださっていたという詩でしたが、この3-4節は生まれた時から白髪になる時まで「担い、背負い、救いだす」と述べられているのです。この3-4節を読んでいる中で私は2つのことを思い出しました。子どもの頃、遅くまで居間でTVを見ていてそのまま眠ってしまった時、夜遅く帰ってきた父によって2階の寝室まで担がれるのです。それが何とも嬉しくて時々わざと寝たふりをすることもありました。

 また、赤とんぼという童謡も思い出しました。

 「夕焼、小焼の、あかとんぼ、負われて見たのは、いつの日か。」

 子どもの頃、遊び疲れて父親や母親に「おんぶ」とか「だっこ」と言ってせがむと、ほいと背負われた。そのなんと嬉しいことか。自分が大人になって、子どもをだっこしたりおんぶしたり、肩車したこと、そこには、「愛」があり、「暖かさ」が、「平和」がありました。神様もまた、私たちの手を引くとか、ただ声をかけて連れ出すというのではなく、主なる神様が、「この背中に乗りなさい」とこの世界で疲れ果てた私たちを背負ってくださるというのです。新約聖書ヨハネの手紙T 3章では「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。」とありました。これ以上の安心は、ないのではないでしょうか?「私の恵みの業を、わたしは近く成し遂げる。もはや遠くない」

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