渋沢教会
更新日:2020.3.14

1月19日 御言葉の説教「点検を迫る神」

大井 啓太郎牧師
イザヤ57:1〜13
Tコリント10:31〜33

 

 イザヤ書56章では、律法によって主の民として認められていなかった異邦人や宦官も、新しい主の民となることを学びましたが、57章では、主なる神様が断固として拒否する人々のことが記されています。まず主の正義に従う者の苦しみに気がつかない人々。イザヤをはじめとして多くの預言者が無視され、迫害され平安が与えられるのは、死によってでしかありませんでした。さらに、異教の風習に染まった人々。5−6節には性的な祭儀を想像させる記述があります。しかし、それはまさしく偶像に他ならず、主なる神を第一とするものではありません。主なる神様は、真実に礼拝するものは、異邦人であろうと宦官であろうと受け入れますが、しかし、主を軽んじ、主に立ち返らない人々に対しては、6節「それらを容赦すると思うのか」11節「わたしがとこしえに沈黙していると思って私を畏れないのか」とあるように、厳しくその罪を問うのです。特に5節「子どもを屠る」こと、私は現代においては児童虐待こそ、この行為そのもののように感じました。自らの欲望のために子どもを犠牲にする。それは堕胎や性的な虐待、人身売買、子どもの奴隷化など広範囲に及んでいるのです。私たちはそのようなことに加担していないと思われるかもしれませんが、グローバル経済が生み出している歪みは、例えば身近な生活用品の原料であるアブラヤシやカカオ豆の栽培に児童が労働力として使われていることを考えると、私たちは全く無関係ということは言えないのです。偶像礼拝とは、自己の欲望をかなえようとするものの総称です。私たちは良いものが安く手に入ることを喜びますが、その分、誰かが不当に安い労賃で働かされ、苦しんでいるということを知らなければなりません。正当な対価を支払うという気持ちこそ、金銭欲という偶像礼拝から逃れる方法だと思います。これは一つの例ですが、自分自身の生き方を点検すること。神様はそのことを私たちに語っておられるのです。

 

 

 

説教詳細は休みます