渋沢教会
更新日:2020.3.14

1月26日 御言葉の説教「ごめんなさいが言えますか」

大井 啓太郎牧師
イザヤ57:14〜21
エフェソ2:14〜18

 

 日本の政治家や官僚の「わたしはやっていない」という発言は、結局厳しい追及にあって後になってから認めるというのが、お決まりのストーリーのようになっている。事実が突き付けられても「記憶にない」といって最後まで自分の非を認めない場合もある。日本の一番大切な部分が腐っているような気がする。イザヤ書57章15節には、「打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる」と繰り返し、へりくだることの大切さが語られている。人間の高慢さは創世記11章のバベルの塔建設がよい例だろう。人間は、自分の能力の高さにうぬぼれて、天にまで届く塔を建てようとするが、神様はそれをとがめられた。結局高慢は、自分を神としてしまい、主なる神様を低くするところにその罪がある。

 しかし、逆に自分を過小評価しすぎても、神様からいただいている賜物に気がつかないということにもなる。それもまた、結果的に神様を低くしてしまうことにつながる。謙虚にしっかりと見る目で見れば、自分が何者であり、神様は自分に何をさせようとしているのか、ということについても分かってくる。

 しかし、16節を見ると「とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすのでもない。霊がわたしの前で弱り果てることがないように。わたしの造った命あるものが。」と語られている。このイザヤ書は、北イスラエル・南ユダ王国の滅亡と捕囚、そして解放と帰還を背景に書かれている。そして、56章からは全世界の民の救いがその背景にある。神様の本質は愛であり、私たちをご自身の元へと立ち返らせることが、主の最大の願いなのだ。17節にあるような私たちでも、回復の道を与えてくださっている。それが、主イエス・キリストの十字架による罪の贖いなのだ。私たちは主イエスによって、神との平和を得ている。主の十字架の死が私たちの罪の身代りであったことを信じ受け入れる時、神様の赦しを実感することができる。

 

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