渋沢教会
更新日:2020.3.29

3月22日 御言葉の説教「どうか主よ…」

大井 啓太郎牧師
イザヤ63:7〜19
ローマ11:25〜32

 

 イザヤ書63 章の後半は、主なる神様に対して預言者イザヤの切実な祈りの言葉が記されています。主なる神様はイスラエルに対して、親が子に示すように憐みと慈しみをもって接してくださっていたにもかかわらず、イスラエルは 背き、神は敵となられた。それでもあなたは 我ら の父であり、贖い主だと預言者は述べ、何故われらを迷いださせているのか、心をかたくな に さ せ て いるのか、畏れない ようにさせるのかと、訴えています。 この言葉は、バビロン捕囚のさなかで祈られたもののようにも読めますが、バビロン捕囚から解放されてもなお神に立ち返らないイスラエルの状況を預言者が嘆き祈ったものであるとも理解できます。

 人は神の祝福によって栄えますが、いつしか人は自分の力と誤解しうぬぼれて神を忘れ、堕落してしまう。そして神か ら罰を受けるという パターン があります。 聖書の中でこのパターンを はっきり表した人物の一人がダビデの子、ソロモンでした。彼は偉大な王であった 父 ダビデの跡を継ぐにあたり、 主なる神様に善と悪を判断で きる心を与えてくださいと願いました。 列王記上3章 7 節以下 主は喜ばれ、国は繁栄しました。しかし、ソロモンの心は主から離れました。その結果、ソロモンの死後、イスラエルは南と北に分裂してしまったのです。この歴史は、 ソロモンだけでなく、人類の歴史そのものだといえます。はじめは善い政治を行っていても、権力と富が、人の心を迷わせるのです。 私たちもまた、絶えず富の誘惑の中で、正しい道がどこにあるのか探し求めなければなりません。

 今私たちは、今まで経験したことのないウイルスとの戦いの中にい ます が、経済性を優先して判断が遅くなり、状況を悪化させてしまった感があります。 それでも、私たちは「どうか主よ」と祈るのです。祈らざるを得ないのです。イタリアでは、毎日何百人という人々が犠牲になっています。どうか主よ、憐れんでください。私たち はあなたにすがるしか生きる道がないのです 、と。 受難節のこの時、私たちの罪をはっきりと主に告白し、悔い改めの祈りを捧げましょう。

 

説教詳細は休みます