渋沢教会
更新日:2020.4.5

3月29日 御言葉の説教「しかし主よ…」

大井 啓太郎牧師
イザヤ64:1〜11
マタイ15:21〜27

 

 イザヤ書 64 章も、63章に続き主なる神様に対して預言者イザヤの切実な祈りの言葉が記されています。彼は民が大いなる罪を犯している自覚がありました。4 節 「喜んで正しいことを行い、 あなたは迎え入れてくださいます。」とありますが、この喜んで正しいことを行うということは、 なかなか難しい 。 そ れ は 喜 んで 自ら犠牲を払わねばな らない からです。さらに 聖書の言 う正しさ とは、それ以上の 神様に対しての正しさです。「まず神の国と神の義を求めなさい」と 主イエス様 は 語 ら れ ま し た が 、神の義、正しさとは山上の説教(マタイ 5 章以下)で「敵を愛しなさい」と語られたような厳しさがあるのです。この基準で言ったら、パウロが 言 った ように「義人はいない、一人もいない」(ロマ3章)のです。

 ですが、預言者は「しかし」と言葉をつなぎます。4節「しかし、あなたの御業によってわ たしたちはとこしえに救われます。」7節「しかし、主よ、あなたはわれらの父」と。神の目か ら見れば私たちは誰もが罪人で ありなが ら、同時に高価で貴いと言ってくださる存在でもあるのです。主なる神はだからこそ、 独り子なる主イエス・キリストを 、私たちの罪の身代わりとして下さったのです。

 そこ で 教 え ら れ る の が マタイ 15 章 の カナンの女 の 言葉 で す。 冷 た く 振る舞 うイエス様 に 対 し て 「 主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです」 。彼女は謙遜ながらも、 人種 民族 など関係ない神の愛を自分も受けている 強い信仰を語 りました。 そして主イ エス 様 は その信仰をほめたのです 。 主イエス様の一見冷たい言葉は 後世 に 生 き る 私たちにこのように信じることを教える ためではなかったかと思うのです。「しかし主よ」と、主と対話する姿勢。主に食らいつく信仰。

 今私たちが置かれている状況も広い意味で言えば、私たちの罪の故です。しかし、それでもた だそれを受け入れるのではなく、しかし、主よ憐れんでくださいと、とりなす祈り手と私たちが なることを主は 、求めておられると思うのです。

説教詳細は休みます