渋沢教会
更新日:2020.10.10

10月4日 御言葉の説教「主イエスの教えD施し」

大井 啓太郎牧師
申命記15:7〜11
マタイ6:1〜4

 

 マタイ6章の主題は善と偽善の違いは何かと言うことです。電車などで席を譲 る行為の中にも、子どもがする善い行いにも、違う動機にしばしば支配されてい ることに気付くのです。自分の行為の全ては偽善である、とさえ思えるのです。

 主イエス様の時代、ユダヤにおいて三つの善いことは、施し・祈り・断食でし た。当時のユダヤ社会においては、施しをするときはラッパを吹いて貧しい人々 を集めていました。主イエス様は「人から褒められようとして」施しをしてはな らないと言われたのです。施しをするという善い行いにはそのような誘惑が絶え ずある。

 キリスト教は善い行いをすれば天国に行き、悪い行いをすれば、地獄に行くと いうような因果応報の思想はもっていないとよく言われます。実際、善い行いに よって天国に行くというのではなく、自らの罪を悔い改め、主イエスを救い主と 仰ぐ者に天の国は開かれている。しかし「隠れたことを見ておられる神の報い」 はあるのです。ただ、人に見せるのではなく、見えない事を見ておられる神の報 いに期待せよと言われるのです。この世界のものは朽ち果てます。善い行いも、 人の目に触れれば、偽善となって腐ってしまい、人の目に触れず、天の国まで取 っておくならば、それは神の目に触れて神様から褒めていただけるのです。偽善 と善の違いは報いを望まないということではなく、人からの報いを期待すること が偽善であり、神からの報いを期待することが善なのです。

 神の恵みを分かち合う事が、本来の施しの姿なのです。全てが神の恵みだから こそ、謙遜にまた真実に善い行いをすることができるのです。

 「慈善は神に対する感謝の心が滴(したた)りて、人に対する憐憫(れんびん) の心に結晶した物」(内村鑑三)。「不承不承でなく、強制されてでもなく、こう しようと心に決めた通りに」(2コリ9:7)行うのです。そうすれば、それが 他人の目には偽善のように映っても、何ら臆することなくすることができます。 何より、自分が主の恵みの中で生かされているという神様への感謝こそが、善い 行いの唯一の動機です。

説教詳細は休みます