渋沢教会
更新日:2021.1.17

1月10日 御言葉の説教「癒される人」

大井 啓太郎牧師
レビ13:45〜46
マタイ8:1〜4

 

 山上の説教を終え、山を下られた主イエス様は重い皮膚病に苦しむ人と出会い ました。この病は律法により共同社会から隔離されてしまうほどのものでしたか ら、彼の苦しみは身体的な痛み苦しみに加えて、社会的な差別という二重の痛み 苦しみだったのです。彼は大勢の群衆の中から、主イエス様の前に勇気を振り絞 って近づきひれ伏しました。このひれ伏すという言葉をある英語訳は pray「祈り」 や、worship「礼拝」という言葉で表現していました。彼は主イエス様に祈り、 礼拝をしていたのです。そして彼の思いは、続く言葉に現れています。「主よ、 御心ならば、私を清くすることがおできになります」。この病を清める力は、た だ主なる神しか持っていないということを分かったうえで、この人物は、イエ ス・キリストに、あなたが望むなら、私を清められますと、神の力を主イエス様 に見出しているのです。

 このような彼に対し、主イエス様は彼に「清くなれ」と罪の赦しを宣言し、そ の体に触れられました。汚れた物に触ってはならない律法がありましたが、主イ エス様は全く意に介さず、深く憐んで醜くなった患部に触れるのです。そして癒 されたのです。私たちはこの出来事から、主イエス様との出会いは、清められた い、助けてもらいたいという切なる願いの中で起こることを知ります。また、人 の目など構わず主の前に出ていこうとする姿に教えられるのです。私たちの心に はまっすぐに主に頼れない。まだどこかに照れのようなものがある。でも、主イ エス様は、マルタとマリアの姉妹に対してマリアのまっすぐな信仰をほめました し、幼子が母親の乳を一生懸命吸いついて飲むように、み言葉を慕い求めなさい と聖書にはあります(1ペトロ 2:2)。この重い皮膚病を患った人が癒されたの は、そのような真っすぐな信仰の故だったのではないかと思うのです。このコロ ナ禍という試みの中で、主の優しく・力強い手がこの世界に触れて癒してくださ るように、まっすぐに祈り求めましょう。

 

 

 

 

説教詳細は休みます